『学生を戦地へ送るには:田辺元「悪魔の京大講義」を読む』 佐藤優劇場

佐藤優『学生を戦地へ送るには:田辺元「悪魔の京大講義」を読む』新潮社、2017 

学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む

学生を戦地へ送るには: 田辺元「悪魔の京大講義」を読む

 

 

 元外務省職員で今は著述家の佐藤優の本。

 佐藤が主催する講義形式の合宿の記録。

 今回は京都大学で活躍した哲学者田辺元の『歴史的現実』をテーマに読解するゼミ。

 

 対話形式(といってもほとんどは佐藤の語りだが)で記録されるので、正直私は読みにくかった。

 仕事柄、証人尋問調書を読んでいるかのような感じ。

 話し言葉がそのまま記載されているのも、テーマ自体が難しいと、逆にイライラするときがある。

 テーマにあった話し方・書き方というものがあるのだろうとは思う。

 

 あと、結局何が言いたいのかも微妙にわからなかった。

 何を目指していたのかが分からなかったのだろうと思う。

 自分の読解の問題なのか、それとも話が飛びまくるからなのだろうか。

 

 なんにせよ、「どうやって学生を戦地へ送ったのか」を理解できた気がしない。

 まぁ、私の読解の問題なのかもしれないが。

 

 それに物知りの佐藤の話は聞いていれば面白い。

 合う人には合うのだろうなと思う。

 また、佐藤の話がいまいちわからなかったので、田辺元の『歴史的現実』に当たってみても面白いのかもしれない。

 

『一九八四年[新訳版]』ディストピア観光ガイド

ジョージ・オーウェル『一九八四年[新訳版]』髙橋和久訳、早川書房、2009

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

 戦争は平和である。

 自由は隷従である。

 無知は強さである。

 

 「何を言っているんだ。」と思ったが、読み進めれば意味が分かる。

 

 あまりにも有名なディストピア小説である。

 ディストピアとは、ギリシャ語で「ディス(悪い)」と「トピア(場所)」を合せた単語だ。

 直訳すると「悪い場所」らしいが、「居心地の悪い場所」とか「住みたくない場所」と考えるとしっくりくる。

 

 『1984年』の世界観は、この居心地の悪さや、住みたくなさの雰囲気で満ちている。

 四六時中、人々を監視するためのテレスクリーン。

 あちこちに隠れている密告者・スパイ・潜入捜査員。

 拷問・処刑・そして戦争。

 

 作中の世界では、主人公のいるオセアニアがユーラシアとイースタシアという超大国と延々戦争している。

 あるときはユーラシアと同盟して、イースタシアと戦い、

 またあるときは、イースタシアと同盟して、ユーラシアと戦っている。

 しかも、ユーラシアと同盟しているときは、イースタシアと同盟していた事実が歴史から抹消される。

 その抹消は徹底的で、ありとあらゆる公文書、既に発行されている新聞等の何から何まで、全て改変される。

 主人公が行っている仕事もこの改変作業だ。

 

 その他にもこんな世界に住みたくないという詳細な設定は多々記載されている。

 

 歴史を改変するという作業は、都合の悪い事実を無かったことにするということだ。

 国家レベルでそういうことをすると、誰も国が悪いことをしたかどうかがわからなくなる。

 国を批判すべき場合でも、批判できないというのは、民主主義国家としてはあってはならない事態だ。

 

 日本も財務省で公文書の改竄があったし、自衛隊の日報もあるものが無いという話になったりで、笑えない。

 怒られるのを怖がる子どもの様な可愛さはない。

 批判を封じ込めようという姑息な雰囲気が今の社会にもあるんだろうなぁとは思う。

 

『大人のための国語ゼミ』 大人ではなく高校生ぐらいに読んでほしい本

野矢茂樹『大人のための国語ゼミ』山川出版社、2017。 

大人のための国語ゼミ

大人のための国語ゼミ

 

 

 野矢茂樹先生といえば『哲学航海日誌』(1999年)から『心という難問 空間・身体・意味』(2016年)にいたる、一連の哲学的な本が有名だ。

 大学生の頃にこれらの本を読んだとき、明晰な語り口に感動した。

 哲学という極めてとっつきにくいとされるテーマ――それはおそらく大きな誤解で、社会にとって不幸なことだ――を、わかりやすく、なおかつ、正確さを失わず、しかも、面白く語る力は第一級だと思う。

 

 そんな野矢先生は、論理トレーニングといった論理学の入門書の分かりやすさにも定評がある。

 『大人のための国語ゼミ』はその最新刊といっていいだろう。

 野矢先生の文章を書く力の源泉を垣間見るかのようだった。

 

 本書の目的は、理解する事、理解してもらえるようにする事といった、コミュニケーションの大前提の力を身に着ける事だ。

 理解できないものや、自分が理解されない事は、つらく悲しいものだ。

 その悲しみが怒りに変わり、暴力へと向かっていく例は枚挙にいとまがない。

 本書は、人々が共に生きていくうえでの重要な力をつける、価値のある一冊だといえる。

 

 そして、そのような目的であり、価値があるが故に、高校生くらいにも読んでほしい一冊でもある。

 もう、理解できないものを理解する努力や、自分を理解してもらおうという試みを放棄した大人にならないように、子どもの内から力をつけて欲しい。

 重大なテーマではあるが、その内容は極めて読みやすい物語だ。

 前から順番にゆっくりゆっくり読み進めていけば、きっと読み通せる。

 

 自分は、読み通した今から、実践しようと思う。

 

『百万光年のちょっと先』 「宇宙に2人だけみたいだね」って感じのショートショート

古橋秀之『百万光年のちょっと先』集英社,2018。 

百万光年のちょっと先 (JUMP j BOOKS)

百万光年のちょっと先 (JUMP j BOOKS)

 

  古橋秀之先生の新しい作品が出るということで、即座に購入を決めた。

 古橋先生といえば、『ある日、爆弾がおちてきて』が名作だ。

 時間をテーマにしたSF作品集で、設定もストーリーも、思春期だった私にはとても心に染み渡ったものだ。

 

 今回の本は宇宙をテーマにしたSF作品集。

 SFらしい「近未来」とか科学的な設定はそこそこに、アラビアンナイトや今昔物語のようなおとぎ話の雰囲気で満ちている。

 全ての話の出だしは「百万光年のちょっと先、今よりほんの三秒むかし」。

 語り手は旧型のアンドロイドという設定で、聞き手は幼い男の子である。

 

 話の舞台は「宇宙の果て」だの、「中心」だの、「破壊された惑星」などという圧倒的スケール。

 舞台の広さの割に、短編ゆえの制限であろうが、どれも登場人物の数は必要最低限に抑えられている。

 ジャンルは風刺的なものや、寓話的なもの、単純なコメディ等様々だが、おススメはなんといってもラブストーリーだ。

 古橋先生の描くラブストーリーの透明な切なさは『ある日、爆弾がおちてきて』の頃から変わらず美しい。

 しかも、挿絵は天下のラブコメ漫画「To Loveる」の矢吹健太朗先生だ。

 

 登場人物や広大な舞台、そしてラブストーリー。

 まさに「宇宙に2人だけみたいだね」の世界を堪能できるのである。

 

 ラブストーリーはちょっとという人も大丈夫。

 何せ50作も短編が収録されているのだ。

 きっとお気に入りの作品が見つかるはずである。

 1つの短編が5分から10分くらいで読めるので、子どもの朝読書などにはうってつけだろうと思う。

『欲望の資本主義 ルールが変わる時』 ゆっくり休めばいいじゃないですか。

『欲望の資本主義 ルールが変わる時』丸山俊一+NHK「欲望の資本主義」政策班,東洋経済新報社,2017。 

欲望の資本主義

欲望の資本主義

 

 

 経済学者や投資家のインタビューをとおして、現代の経済の異常さや今後について考えさせられる本。

 

 第1章のスティグリッツは夢と希望のある話が語られる。

 スティグリッツ地球温暖化防止のための活動で経済成長が期待できるという。

 にもかかわらず、そのような構造の転換ができていない現状を指摘する。

長期的な投資ニーズと大きな貯蓄があるのに、金融市場は目先の事に躍起になって機能不全に陥っている。これが、我々の市場経済が招いた決定的な変化の一つです。(37頁)

 目先の金を追うのではなく、将来にわたって社会全体の在り方を変えるような投資をしようという呼びかけは、閉塞感がある社会で魅力的だ。

 

 他方で、スティグリッツは、こうも主張する。

(新しいテクノロジーで)利益が上がり、広く普及したからといって、ただちに社会のためになっていると考えるのは早計(56頁)

 それは新しいテクノロジーの不都合な点や危険な点が規制される前に稼いでいるだけの可能性があると指摘するのだ。

 新しいテクノロジーの危険性に対処する前に、利用すれば、好き勝手に稼ぐことが出来る。

 民泊なんてまさにその典型だ。

 また、新しいテクノロジーによって雇用が奪われる可能性もある。

 社会全体の在り方を変える方向性が問題になっている。

 

 第2章のセドラチェクへのインタビューはさらに刺激的だ。

 セドラチェクは次のように言う。

「成長は良いことだ」「経済は成長し続けなければならない」という思いこみこそが問題だと思うんです。(91頁)

 

 彼の例え話はどれも単純でわかりやすい。

食べ物はあり余っているけれど食欲が足りないことが問題なら、なぜその解決策が、料理をもっと多く、もっと効率よくつくることなのでしょうか。なぜ料理をやめないのでしょう。やめて、ゆっくり休めばいいじゃないですか。(104頁)

 満ち足りているはずの社会でもっと満ちるために頑張って働くというのはおかしなことだ。

 働くのは「自由」になるためなのに、働いても働いても自由になれないのは、何かが間違っているのではないか。

 これをセドラチェクは「主従逆転」と呼ぶ。

 

 その上、我々の文明は、安定を売って、成長を買っていると指摘する。

 日本の国債発行の話などまさにその典型だ。

 

 「ゆっくり休めばいいじゃないですか。」という言葉は単純な夢以上の夢がある。

 しかし、そのための条件として、次のようにも言うのである。

AIは人間から仕事を奪います。だからこそ、私たちはAIを望んだのです。ですから、人間の代わりに本当にコンピュータに働いてほしいのなら、AIが生み出す利益の社会的な配分について考えておかなければならない。(136頁)

 確かに、配分に関する指摘は重要になる。

 働かざる者食うべからずという標語が正義であるためには、働く場所がなければならない。

 そして、そもそも働く必要が無いのに、食べてはならないというのは、問題だろう。

 食べる事と働くことの主従逆転が起きているからだ。

 

 第3章は投資家のスタンフォードへのインタビューだ。

 新しい技術について語る彼の姿は、読んでいて楽しい。

 しかし、そこに希望があるかというと一抹の不安が残る。

 

 日本の経済学者である安田洋祐(「祐」は「示」に「右」の旧字体)が分かりやすくインタビューしていて、とても読みやすい。

 セドラチェクのインタビューを読むだけでも価値があると思う。