『民を殺す国・日本』 日本の無責任さ

 フクシマの事故の反省なくして、原発の再稼働はあり得ない。

 それは極めて当然の主張だと思う。

 事故が何故起きたのか解明されていないということは、また同じような地震で、同じように原発が事故を起こす可能性があるということだからだ。

 事故の広範性、深刻性を思うとき、反省もなく「想定外でした」はあまりに無責任だ。

 

 なぜ、ここまで反省しないのか。

 そして、幾ばくかの反省さえも活かそうとしないのか。

 それは、我が国全体が「構造的な無責任」を抱えているからだ。

 そう説く本を読んだ。

 

  足尾銅山鉱毒事件から、満州侵攻、フクシマへと至る近代日本が抱える欠点をよくあぶり出している。

 無責任さ。

 必死の訴えも、ノイズとして処理する無慈悲さ。

 それらに通底する、思考のなさ。

 

 それへの対抗策が共有された社会資源の確保というのは、中々に魅力的だが、実現は社会の構造を変えないと不可能だ。

 他者がいなければ満足に自由に生きていけないという事実を目に見える形で人々に示さなければならないだろうと思う。