『民を殺す国・日本』 日本の無責任さ
フクシマの事故の反省なくして、原発の再稼働はあり得ない。
それは極めて当然の主張だと思う。
事故が何故起きたのか解明されていないということは、また同じような地震で、同じように原発が事故を起こす可能性があるということだからだ。
事故の広範性、深刻性を思うとき、反省もなく「想定外でした」はあまりに無責任だ。
なぜ、ここまで反省しないのか。
そして、幾ばくかの反省さえも活かそうとしないのか。
それは、我が国全体が「構造的な無責任」を抱えているからだ。
そう説く本を読んだ。
足尾銅山鉱毒事件から、満州侵攻、フクシマへと至る近代日本が抱える欠点をよくあぶり出している。
無責任さ。
必死の訴えも、ノイズとして処理する無慈悲さ。
それらに通底する、思考のなさ。
それへの対抗策が共有された社会資源の確保というのは、中々に魅力的だが、実現は社会の構造を変えないと不可能だ。
他者がいなければ満足に自由に生きていけないという事実を目に見える形で人々に示さなければならないだろうと思う。
『原子力規制委員会――独立・中立という幻想』
福島の事故から早いもので7年が過ぎた。
国家権力というのは、かくも反省しないのだというニュースばかりだ。
この本は、原発の規制を担う原子力規制委員会の体たらくを丁寧に書いている。
まず、フクシマに至る無反省・無為無策の歴史を明らかにした。
そして、原子力規制委員会だって同じだということを明言している。
公正中立な規制を実現するのであれば、利害関係のない人間に任せなければならないはずだが、
原子力規制委員会は、 電力会社やその間連団体の人間や、そこから金をもらった人間が多数派になった、極めて偏向的な集団だ。
なんの意味もない規制委員会で良しとしている国会も無為無策のそしりは免れない。
それに上塗りするかのように、専門家の集団だからとその判断を無批判にありがたがる司法権の大部分の無思考振りには、驚きを禁じ得ない。
私は原発もそれを良しとする電力会社も嫌いだ。
民事執行の冬
冬が過ぎ、ようやく春かと思えば今は夏日。
今年の冬は民事執行が多かった。
特に動産執行。
債務者の家に行って、売れそうな家財道具などを押さえた。
それでも、売れることなんてほとんどない。
そもそも売れる価値のある家財なんてほとんどない。
売れそうでも差し押さえられなかったりする。
差押禁止動産の種類が多岐にわたる。
現金も66万円までは押さえられない。
はっきり言って、借り得だ。
踏み倒そうと思えば、容易に踏み倒せるのが、今の法律だ。
民事執行制度の実効性が弱いのだ。
債務者の預金があるかないかも、調べる術は皆無だ。
家族の預金にしてしまえば、債務者の財産でもなくなる。
誰もが容易に自分の権利を実現できないのであれば、誰が法律を信頼するのだろうか。
相談者に「裁判で勝っても、回収の見込みはありません」というのは割りと辛い。
マイナンバーで色々なものが紐づけられるのてあれば、財産調査にも活かしてほしい。
人から金を借りて、返す気がない奴に、いっちょ前に財産権を主張する権限などない。
問題解決の面白い話
読書猿先生が東洋経済オンラインに面白い記事を載せていた。
問題解決の方法についてだ。
https://toyokeizai.net/articles/-/204743?display=b
子どもにギャンブルをやめさせるために、親が敢えて「週に2回ギャンブルを教えて! お金を払うから」と言うと、そのうち勝手にやめるというのが面白かった。
どうもこの本に書かれてあるらしい。
いずれ読んでみようと思う。
似たような話を2つ聞いたことがある。
1つは、toggeterで見た奴で、親がゲームばっかりする子供にゲームをやめさせる方法だ。
その方法はうろおぼえだが、ゲームを行うことを逆に義務付けて、毎日、何時から何時まではゲームの時間。
終わったあとにレポートの提出を課すとかそんなものだったと思う。
もう1つは、昔読んだ祖母の本に書いてあった説話だ。
お釈迦様に、ある男が怒りっぽい性格を直したいと相談する話だ。
お釈迦様は「じゃあ怒ってみなさい。遠慮はいらないから。」なんて仰るんだけど、
男はいざ怒れと言われると呆気に取られて怒る気にならない。
そこでお釈迦様は、怒りたくなったときは、どうして怒ってるのかよく考えなさい、なんて諭したような気がする。
もうよく覚えてないが、この本に書いてあった。
結局、人はやらなければならないことになると途端につまらなくなるようだ。
趣味を仕事にすることのヤバさも潜む有意義な話だったり
自衛官による国会議員罵倒について
現役自衛官が国会議員を「国民の敵」呼ばわりする事件が発生した。
直ちに統合幕僚長、防衛省事務次官が謝罪するなど、事件終息に向けた動きがなされている。
しかし、かなりのインパクトのある事件だった。
過去、自衛官による発言が大いに注目された例に、田母神論文が挙げられる。
田母神論文は、執筆者の肩書きと内容のインパクとで話題になったが、一応、(かろうじて)学問上の論評という価値はあったと思う。
今回は、単なる罵倒であって、何らの価値もない発言である。
ある記事では、自衛官の発言は許されないのか、などと今回の騒ぎを冷ややかに見ているようだ。https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180418/soc1804180017-n1.html
しかし、この記事を書いた人間は、他人を公然と罵倒してよいとでも言いたいのか。
何しろ自衛官は政治的行動が制限されている。
国会議員に対する国民の敵発言が政治的言動でなくして何なのだろうか。
そもそも国民から選ばれた国会議員が国民の敵というのは意味不明である。
今回の罵倒の動機は知らないが、被害にあった議員が日報問題等で厳しい追及をしたことに忸怩たる思いがあったのではないかと推測されている。
もしそうだとすれば、国権上、最強の実力行使機関の批判をすれば非国民呼ばわりされることになる。
文民への敬意・尊重というシビリアンコントロールの精神が全く感じられない。
あるべき国民像を自衛官のみならず誰も決定できないはずだ。
多様な国民を前提とした自由な国を守る、そういう尊敬されている自衛官像も守ってほしい。
『世界一シンプルなバフェットの投資』 金があったらそうしたい
ウォーレン・バフェットといえば、世界有数の大金持ち。
株の売買で財を成した人だ。
株の売買で儲けを出す理屈は簡単なことだ。
それは株以外の全ての商品と同じく、安いときに買い、買った時より高い値段で売る、というものだ。
株の値段は原理上、0.1秒ごとに値段を決めることさえできる。
ある株の値段は0.1秒後には変わっており、さらに0.1秒後にはまた変わっている。
この値動きを利用して、最近の株の売買は、目にもとまらぬ速さで売り買いを行っているそうだ。
値動きは非常に小さいので、利益を出すためには、大量の株を売買することになる。
「今日はこの株を買おうかな。」ではなく、
「この瞬間に全株を買って、全株を売る。」という日常的には理解不能な取引をしているのだ。
このような株売買をバフェットは行わない。
非常に価値のある企業であるはずなのに、何らかのきっかけで株が安くなってしまった場合に、バフェットは株を買うことを勧める。
いずれ企業価値が元の値段、あるいはそれ以上になった時、バフェットは大儲けすることになる。
それも株を売ったお金ではなく、配当で。
価値のある企業を探すことも、株を買うきっかけを待つことも、配当を貰い続けることも、忍耐のいることだ。
そういったことのエッセンスがこの本に書かれてあった。
バフェット信者が書いた本であることは文体から解る。
書いてある事に取立てて異議を申し述べるつもりはない。
しかし、重要な前提が抜けているようにも思う。
「金持ちになりたければ、バフェットの真似をしろ。何故ならバフェットは成功しているからだ。」
この真似っこ作戦が上手くいくのは、バフェットと同じ環境に置かれることが前提となる。
具体的には、バフェットのように勉強ができ、企業の価値を見極める目を持ち、そして何より最初の株を買うための資金を持っていることだ。
要は、金があったらできるけど、金がなければできません。
もちろん、バフェットになりたいというほどの夢を持たないのであれば、ささやかに投資して儲けることもできるであろう。
だが、バフェット流を真似するなら、金もないのに、1日の大半を読書と考えることに充てるという、日常的な労働者の生活は捨て去ることになる。
「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:17より抜粋)
『ほんとうの中国の話をしよう』 読書にあった時期の話
ある母親が言っていた話。
「子どもに性的な描写のある漫画を読ませたくないのに、最近の漫画は油断すると性描写がある。」
だから、漫画は読ませないのだそうだ。
子どもの年齢によっては至極もっともな意見だ。
教育方針として間違ってないのだろうと思う。
ただ、気になって、「じゃあ、お子さんには何を読ませているんですか?」と尋ねてみた。
その母親は「夏目漱石とかを読ませている。」とのことだった。
むしろ、その教育方針の方がまずいのではないかと思った。
なんとなく無理やり読ませている気がしたから。
そして、この本のエピソードを思い出した。
小説家の余華(ユイ・ホア)の書いたこの本は、中国では発禁処分だそうだ。
中国を「人民」「革命」「領袖」といったキーワードからシニカルに描き出す。
キーワードの一つが、中国が生んだ大作家「魯迅」である。
文化大革命の嵐の中でも、唯一「先生」という敬称付きで呼ばれた作家である。
余華が育った文化大革命時代には国語の教科書が魯迅の小説ばかりだったそうだ。
子ども達は徹底的に魯迅を詰め込まれた。
子ども同士でも口喧嘩に魯迅の言葉を引用して相手を黙らせようとした。
魯迅の言葉は誰も否定できない権威だったからだ。
このような固さや強制からか、余華は、魯迅をあまり評価していなかった。
古臭い過去の遺物という見方は、文化大革命が終わってからも抱いていたようだ。
ところが、余華が、仕事で魯迅の本を読まなくてはならなくなり、状況は一変する。
読んだその日の内に、余華の魯迅への評価は一変する。
「本には読むべき時期がある」
大人向けの本、子ども向けの本というのはあるのだろうが、本がその人に感動を与えるのは、ある然るべき一時期なのだ。
そして、それは誰かに読むように言われて読むものではなく、出会うことが重要なのだとも思う。
冒頭の母親の子どもが夏目漱石の作品を好きになればいいなあと思う。