民事執行の冬
冬が過ぎ、ようやく春かと思えば今は夏日。
今年の冬は民事執行が多かった。
特に動産執行。
債務者の家に行って、売れそうな家財道具などを押さえた。
それでも、売れることなんてほとんどない。
そもそも売れる価値のある家財なんてほとんどない。
売れそうでも差し押さえられなかったりする。
差押禁止動産の種類が多岐にわたる。
現金も66万円までは押さえられない。
はっきり言って、借り得だ。
踏み倒そうと思えば、容易に踏み倒せるのが、今の法律だ。
民事執行制度の実効性が弱いのだ。
債務者の預金があるかないかも、調べる術は皆無だ。
家族の預金にしてしまえば、債務者の財産でもなくなる。
誰もが容易に自分の権利を実現できないのであれば、誰が法律を信頼するのだろうか。
相談者に「裁判で勝っても、回収の見込みはありません」というのは割りと辛い。
マイナンバーで色々なものが紐づけられるのてあれば、財産調査にも活かしてほしい。
人から金を借りて、返す気がない奴に、いっちょ前に財産権を主張する権限などない。
問題解決の面白い話
読書猿先生が東洋経済オンラインに面白い記事を載せていた。
問題解決の方法についてだ。
https://toyokeizai.net/articles/-/204743?display=b
子どもにギャンブルをやめさせるために、親が敢えて「週に2回ギャンブルを教えて! お金を払うから」と言うと、そのうち勝手にやめるというのが面白かった。
どうもこの本に書かれてあるらしい。
いずれ読んでみようと思う。
似たような話を2つ聞いたことがある。
1つは、toggeterで見た奴で、親がゲームばっかりする子供にゲームをやめさせる方法だ。
その方法はうろおぼえだが、ゲームを行うことを逆に義務付けて、毎日、何時から何時まではゲームの時間。
終わったあとにレポートの提出を課すとかそんなものだったと思う。
もう1つは、昔読んだ祖母の本に書いてあった説話だ。
お釈迦様に、ある男が怒りっぽい性格を直したいと相談する話だ。
お釈迦様は「じゃあ怒ってみなさい。遠慮はいらないから。」なんて仰るんだけど、
男はいざ怒れと言われると呆気に取られて怒る気にならない。
そこでお釈迦様は、怒りたくなったときは、どうして怒ってるのかよく考えなさい、なんて諭したような気がする。
もうよく覚えてないが、この本に書いてあった。
結局、人はやらなければならないことになると途端につまらなくなるようだ。
趣味を仕事にすることのヤバさも潜む有意義な話だったり
自衛官による国会議員罵倒について
現役自衛官が国会議員を「国民の敵」呼ばわりする事件が発生した。
直ちに統合幕僚長、防衛省事務次官が謝罪するなど、事件終息に向けた動きがなされている。
しかし、かなりのインパクトのある事件だった。
過去、自衛官による発言が大いに注目された例に、田母神論文が挙げられる。
田母神論文は、執筆者の肩書きと内容のインパクとで話題になったが、一応、(かろうじて)学問上の論評という価値はあったと思う。
今回は、単なる罵倒であって、何らの価値もない発言である。
ある記事では、自衛官の発言は許されないのか、などと今回の騒ぎを冷ややかに見ているようだ。https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180418/soc1804180017-n1.html
しかし、この記事を書いた人間は、他人を公然と罵倒してよいとでも言いたいのか。
何しろ自衛官は政治的行動が制限されている。
国会議員に対する国民の敵発言が政治的言動でなくして何なのだろうか。
そもそも国民から選ばれた国会議員が国民の敵というのは意味不明である。
今回の罵倒の動機は知らないが、被害にあった議員が日報問題等で厳しい追及をしたことに忸怩たる思いがあったのではないかと推測されている。
もしそうだとすれば、国権上、最強の実力行使機関の批判をすれば非国民呼ばわりされることになる。
文民への敬意・尊重というシビリアンコントロールの精神が全く感じられない。
あるべき国民像を自衛官のみならず誰も決定できないはずだ。
多様な国民を前提とした自由な国を守る、そういう尊敬されている自衛官像も守ってほしい。
『世界一シンプルなバフェットの投資』 金があったらそうしたい
ウォーレン・バフェットといえば、世界有数の大金持ち。
株の売買で財を成した人だ。
株の売買で儲けを出す理屈は簡単なことだ。
それは株以外の全ての商品と同じく、安いときに買い、買った時より高い値段で売る、というものだ。
株の値段は原理上、0.1秒ごとに値段を決めることさえできる。
ある株の値段は0.1秒後には変わっており、さらに0.1秒後にはまた変わっている。
この値動きを利用して、最近の株の売買は、目にもとまらぬ速さで売り買いを行っているそうだ。
値動きは非常に小さいので、利益を出すためには、大量の株を売買することになる。
「今日はこの株を買おうかな。」ではなく、
「この瞬間に全株を買って、全株を売る。」という日常的には理解不能な取引をしているのだ。
このような株売買をバフェットは行わない。
非常に価値のある企業であるはずなのに、何らかのきっかけで株が安くなってしまった場合に、バフェットは株を買うことを勧める。
いずれ企業価値が元の値段、あるいはそれ以上になった時、バフェットは大儲けすることになる。
それも株を売ったお金ではなく、配当で。
価値のある企業を探すことも、株を買うきっかけを待つことも、配当を貰い続けることも、忍耐のいることだ。
そういったことのエッセンスがこの本に書かれてあった。
バフェット信者が書いた本であることは文体から解る。
書いてある事に取立てて異議を申し述べるつもりはない。
しかし、重要な前提が抜けているようにも思う。
「金持ちになりたければ、バフェットの真似をしろ。何故ならバフェットは成功しているからだ。」
この真似っこ作戦が上手くいくのは、バフェットと同じ環境に置かれることが前提となる。
具体的には、バフェットのように勉強ができ、企業の価値を見極める目を持ち、そして何より最初の株を買うための資金を持っていることだ。
要は、金があったらできるけど、金がなければできません。
もちろん、バフェットになりたいというほどの夢を持たないのであれば、ささやかに投資して儲けることもできるであろう。
だが、バフェット流を真似するなら、金もないのに、1日の大半を読書と考えることに充てるという、日常的な労働者の生活は捨て去ることになる。
「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:17より抜粋)
『ほんとうの中国の話をしよう』 読書にあった時期の話
ある母親が言っていた話。
「子どもに性的な描写のある漫画を読ませたくないのに、最近の漫画は油断すると性描写がある。」
だから、漫画は読ませないのだそうだ。
子どもの年齢によっては至極もっともな意見だ。
教育方針として間違ってないのだろうと思う。
ただ、気になって、「じゃあ、お子さんには何を読ませているんですか?」と尋ねてみた。
その母親は「夏目漱石とかを読ませている。」とのことだった。
むしろ、その教育方針の方がまずいのではないかと思った。
なんとなく無理やり読ませている気がしたから。
そして、この本のエピソードを思い出した。
小説家の余華(ユイ・ホア)の書いたこの本は、中国では発禁処分だそうだ。
中国を「人民」「革命」「領袖」といったキーワードからシニカルに描き出す。
キーワードの一つが、中国が生んだ大作家「魯迅」である。
文化大革命の嵐の中でも、唯一「先生」という敬称付きで呼ばれた作家である。
余華が育った文化大革命時代には国語の教科書が魯迅の小説ばかりだったそうだ。
子ども達は徹底的に魯迅を詰め込まれた。
子ども同士でも口喧嘩に魯迅の言葉を引用して相手を黙らせようとした。
魯迅の言葉は誰も否定できない権威だったからだ。
このような固さや強制からか、余華は、魯迅をあまり評価していなかった。
古臭い過去の遺物という見方は、文化大革命が終わってからも抱いていたようだ。
ところが、余華が、仕事で魯迅の本を読まなくてはならなくなり、状況は一変する。
読んだその日の内に、余華の魯迅への評価は一変する。
「本には読むべき時期がある」
大人向けの本、子ども向けの本というのはあるのだろうが、本がその人に感動を与えるのは、ある然るべき一時期なのだ。
そして、それは誰かに読むように言われて読むものではなく、出会うことが重要なのだとも思う。
冒頭の母親の子どもが夏目漱石の作品を好きになればいいなあと思う。
『ジョーカー・ゲーム』 こんなスパイになりたかった
本当かどうか知らないが、昔聞いた話。
ロシアのプーチンは、幼い頃、旧ソ連のスパイ機関KGBへ「スパイになりたい」と訪問したそうだ。
そのときの担当のスパイ(?)は、「スパイになりたい人をスパイにするのではなく、スパイになれる人を我々がスカウトするから、私生活で頑張りなさい」と告げたとか。
なるほど、スパイはなってからだけでなく、なる前から特別な雰囲気があるのだなぁと感心した。
そんな特別なスパイたちの話。
もう超人中の超人達の集まりで、縦横無尽の活躍である。
どこまでいっても黒幕の台本通りで、誰が何やら、何がどれやらわからないうちに、予想もなにもひっくり返しながら、話が進んで、結末は毎回作者の思う壺だ。
アニメ化されていたり、映画化もされているようなので、機会があれば観てみたい。
思えば自分も誰からも知られずに秘密の行動をするスパイに憧れたこともあった。
とはいえ、小説にビックリしどおしな程度であれば、自分をスカウトする組織はないんだろうなぁと思ったりもする。
『服従の心理』 異を唱える勇気
スタンレー・ミルグラム『服従の心理』山形浩生訳、河出文庫、2012。
見ず知らずのオッサンから「あの人を殴ってくれ」と言われたとき、きっと殴らないだろうと思う。
人を傷つけてはならない、というのは常識だからだ。
このような常識を破るやつは「よっぽどのワル」かサイコパスくらいだろう。
しかし、その常識は簡単に崩すことができる。
人は意外にも他人を簡単に傷つけるようになってしまう。
本書は、このことを明らかにしている。
スタンレー・ミルグラムは、アメリカの研究者だ。
そして次のような実験を行うことにした。
実験に協力者してくれる人を2人連れてきて、
1人を回答者、もう1人を採点者にして、簡単な記憶テストを1問ずつ行ってもらう。
回答者は電気が流れるイスに座ってもらい、採点者は回答者から見えない位置に、実験を行う先生と一緒に座ってもらう。
実験を行う先生は、採点者に、
「回答者が回答を間違えるたびに、電気ショックを与えるように。」
と指示する。
最初はピリッとくる程度の電気ショックだが、
間違う数が多くなるごとに、電気ショックの強さはどんどん強くなる。
最終的には人体に危険なレベルまで電気ショックの強さを強くすることができる。
こんな電気ショックを与える理由についても、実験を行う先生からきちんと説明がある。
「電気ショックを与えた方が、一生懸命になって、記憶力が上がることを確認するためだ。」
ここからがこの実験の面白いトリックなのだが、実は採点者以外は全て仕掛け人だ。
回答者はわざと回答を間違える。
そうすると実験者が電気ショックを与えるように指示する。
採点者は電気ショックのボタンを押すが、そのボタンは作り物で、本当は電気は流れない。
だが、回答者は電気ショックを受けて痺れる演技をする。
わざと間違える回数が多くなるたびに、
回答者の演技には力がこもり、悲鳴を上げたり、「自分は心臓が悪いんだ!」「実験を中止しろ!」と叫んだり、何も言葉を発さなくなったりする。
ミルグラムが実験で確認したかったのは、
電気ショックが記憶力に与える影響ではなく、
この可愛そうな(演技をする)回答者のために、採点者が電気ショックを与えるのをやめるのかどうかだった。
ミルグラムの仲間たちは、実験の結果を次のように予想していた。
多くの人は、こんな目的の実験で、人に電気ショックを与える続けるはずがない。
回答者が「やめてくれ!」と叫んだ時点でやめるだろうし、
ましてや「危険」と書かれた電気ショックのボタンを押そうとも思わないだろう。
おそらくボタンを押し続けるのは、1000人に1人くらいだろう。
しかし、実験結果は予想外のものだった。
40人中26人もの採点者が、最強のボタンを押したのだった。
この結果は、65%の人が、回答者役の人が泣き喚こうと、絶叫しようと、電気ショックを加え続けたということを意味する。
もちろん、途中で「回答者が痛がっていますが、どうしますか?」とほとんどの採点者が実験者に尋ねた。
しかし、実験者は「大丈夫です。」「続けてください。」「続けてくれないと困ります。」「電気ショックが健康に影響することはありません。」などと言って、採点者に電気ショックを与えるように指示し続ける。
このように指示を受けても、実験を自分の考えで中止する人もいたが、65%の人は、
「実験する先生がそういうなら・・・・・・。」
ということで、ボタンを押し続けた。
4 この実験結果は何を意味するのか
多くの人は、自分より偉そうな人(難しい言葉だと「権威のある人」。今回は実験を行う先生)から指示されたり、命令されたりすると、
それがたとえ他人を傷つける指示であろうと、その指示に従ってしまう。
このことが、実験から明らかになったのだ。
誰もが持っている、「人を傷つけてはいけない」という常識は、
「大丈夫だからやれ」
という一言で簡単に崩すことができるのだ。
5 そのほかの実験
ミルグラムは他にも実験を行っている。
例えば、採点者を回答者の側に置いたら、同情してボタンを押すのをやめるのではないか。
実験を行う先生を2人に増やして、1人はボタンを押すように、もう1人は実験を中止するように指示したらどうするか。
実験を行う先生に反抗する役の人を何人か置いたらどうなるか。
などなど。
この実験はあくまでも実験だが、自分達の周りに目を向けてみたい。
正しくないことを指示することはよくある。
しかし、そういう場合でも、何となく言いだせずに、従ってしまうことはよくある。
そんなときに「それは間違っているんだよ」ということは難しいし、
間違った指示に従わないよう抵抗することは、もっと難しい。
ただ、指示に従ってしまった人もやはり悪いことをしたことは間違いない。
「自分は指示に従っただけなんです。」は下手な言い訳にしかならない。
抗議の声を上げる、指示に従わない(不服従)を貫く。
そういう勇気を持って一歩踏み出さなければならない時があるかもしれない。
そんなときこの本に書かれてある事は参考になるのかもしれない。