自衛官による国会議員罵倒について

 現役自衛官国会議員を「国民の敵」呼ばわりする事件が発生した。

 直ちに統合幕僚長防衛省事務次官が謝罪するなど、事件終息に向けた動きがなされている。

 しかし、かなりのインパクトのある事件だった。

 

 過去、自衛官による発言が大いに注目された例に、田母神論文が挙げられる。

 田母神論文は、執筆者の肩書きと内容のインパクとで話題になったが、一応、(かろうじて)学問上の論評という価値はあったと思う。

 今回は、単なる罵倒であって、何らの価値もない発言である。

 

 ある記事では、自衛官の発言は許されないのか、などと今回の騒ぎを冷ややかに見ているようだ。https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180418/soc1804180017-n1.html

 しかし、この記事を書いた人間は、他人を公然と罵倒してよいとでも言いたいのか。

 何しろ自衛官は政治的行動が制限されている。

 国会議員に対する国民の敵発言が政治的言動でなくして何なのだろうか。

 

 そもそも国民から選ばれた国会議員が国民の敵というのは意味不明である。

 

 今回の罵倒の動機は知らないが、被害にあった議員が日報問題等で厳しい追及をしたことに忸怩たる思いがあったのではないかと推測されている。

 もしそうだとすれば、国権上、最強の実力行使機関の批判をすれば非国民呼ばわりされることになる。

 文民への敬意・尊重というシビリアンコントロールの精神が全く感じられない。

 

 あるべき国民像を自衛官のみならず誰も決定できないはずだ。

 多様な国民を前提とした自由な国を守る、そういう尊敬されている自衛官像も守ってほしい。

『世界一シンプルなバフェットの投資』 金があったらそうしたい

 ウォーレン・バフェットといえば、世界有数の大金持ち。

 株の売買で財を成した人だ。

 

 株の売買で儲けを出す理屈は簡単なことだ。

 それは株以外の全ての商品と同じく、安いときに買い、買った時より高い値段で売る、というものだ。

 

 株の値段は原理上、0.1秒ごとに値段を決めることさえできる。

 ある株の値段は0.1秒後には変わっており、さらに0.1秒後にはまた変わっている。

 この値動きを利用して、最近の株の売買は、目にもとまらぬ速さで売り買いを行っているそうだ。

 値動きは非常に小さいので、利益を出すためには、大量の株を売買することになる。

 「今日はこの株を買おうかな。」ではなく、

 「この瞬間に全株を買って、全株を売る。」という日常的には理解不能な取引をしているのだ。

 

 このような株売買をバフェットは行わない。

 非常に価値のある企業であるはずなのに、何らかのきっかけで株が安くなってしまった場合に、バフェットは株を買うことを勧める。

 いずれ企業価値が元の値段、あるいはそれ以上になった時、バフェットは大儲けすることになる。

 それも株を売ったお金ではなく、配当で。

 価値のある企業を探すことも、株を買うきっかけを待つことも、配当を貰い続けることも、忍耐のいることだ。

 

 そういったことのエッセンスがこの本に書かれてあった。

世界一シンプルなバフェットの投資

世界一シンプルなバフェットの投資

 

  バフェット信者が書いた本であることは文体から解る。

 書いてある事に取立てて異議を申し述べるつもりはない。

 しかし、重要な前提が抜けているようにも思う。

 「金持ちになりたければ、バフェットの真似をしろ。何故ならバフェットは成功しているからだ。」

 この真似っこ作戦が上手くいくのは、バフェットと同じ環境に置かれることが前提となる。

 具体的には、バフェットのように勉強ができ、企業の価値を見極める目を持ち、そして何より最初の株を買うための資金を持っていることだ。

 

 要は、金があったらできるけど、金がなければできません。

 もちろん、バフェットになりたいというほどの夢を持たないのであれば、ささやかに投資して儲けることもできるであろう。

 だが、バフェット流を真似するなら、金もないのに、1日の大半を読書と考えることに充てるという、日常的な労働者の生活は捨て去ることになる。

 

 「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:17より抜粋)

『ほんとうの中国の話をしよう』 読書にあった時期の話

  ある母親が言っていた話。

 「子どもに性的な描写のある漫画を読ませたくないのに、最近の漫画は油断すると性描写がある。」

 だから、漫画は読ませないのだそうだ。

 子どもの年齢によっては至極もっともな意見だ。

 教育方針として間違ってないのだろうと思う。

 ただ、気になって、「じゃあ、お子さんには何を読ませているんですか?」と尋ねてみた。

  その母親は「夏目漱石とかを読ませている。」とのことだった。

 むしろ、その教育方針の方がまずいのではないかと思った。

 なんとなく無理やり読ませている気がしたから。

 

 そして、この本のエピソードを思い出した。

 

ほんとうの中国の話をしよう (河出文庫)

ほんとうの中国の話をしよう (河出文庫)

 

 

 小説家の余華(ユイ・ホア)の書いたこの本は、中国では発禁処分だそうだ。

 中国を「人民」「革命」「領袖」といったキーワードからシニカルに描き出す。

 

 キーワードの一つが、中国が生んだ大作家「魯迅」である。

 文化大革命の嵐の中でも、唯一「先生」という敬称付きで呼ばれた作家である。

 

 余華が育った文化大革命時代には国語の教科書が魯迅の小説ばかりだったそうだ。

 子ども達は徹底的に魯迅を詰め込まれた。

 子ども同士でも口喧嘩に魯迅の言葉を引用して相手を黙らせようとした。

 魯迅の言葉は誰も否定できない権威だったからだ。

 

 このような固さや強制からか、余華は、魯迅をあまり評価していなかった。

 古臭い過去の遺物という見方は、文化大革命が終わってからも抱いていたようだ。

 

 ところが、余華が、仕事で魯迅の本を読まなくてはならなくなり、状況は一変する。

 読んだその日の内に、余華の魯迅への評価は一変する。

 

 「本には読むべき時期がある」

 

 大人向けの本、子ども向けの本というのはあるのだろうが、本がその人に感動を与えるのは、ある然るべき一時期なのだ。

 そして、それは誰かに読むように言われて読むものではなく、出会うことが重要なのだとも思う。

 

 冒頭の母親の子どもが夏目漱石の作品を好きになればいいなあと思う。

『ジョーカー・ゲーム』 こんなスパイになりたかった

 本当かどうか知らないが、昔聞いた話。

 

 ロシアのプーチンは、幼い頃、旧ソ連のスパイ機関KGBへ「スパイになりたい」と訪問したそうだ。 

 

 そのときの担当のスパイ(?)は、「スパイになりたい人をスパイにするのではなく、スパイになれる人を我々がスカウトするから、私生活で頑張りなさい」と告げたとか。

 

 なるほど、スパイはなってからだけでなく、なる前から特別な雰囲気があるのだなぁと感心した。 

 そんな特別なスパイたちの話。

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)

 

  もう超人中の超人達の集まりで、縦横無尽の活躍である。

 どこまでいっても黒幕の台本通りで、誰が何やら、何がどれやらわからないうちに、予想もなにもひっくり返しながら、話が進んで、結末は毎回作者の思う壺だ。

 

 アニメ化されていたり、映画化もされているようなので、機会があれば観てみたい。

 

 思えば自分も誰からも知られずに秘密の行動をするスパイに憧れたこともあった。

 とはいえ、小説にビックリしどおしな程度であれば、自分をスカウトする組織はないんだろうなぁと思ったりもする。

 

『服従の心理』 異を唱える勇気

スタンレー・ミルグラム服従の心理』山形浩生訳、河出文庫、2012。

服従の心理 (河出文庫)

服従の心理 (河出文庫)

 

 

 見ず知らずのオッサンから「あの人を殴ってくれ」と言われたとき、きっと殴らないだろうと思う。

 

 人を傷つけてはならない、というのは常識だからだ。

 このような常識を破るやつは「よっぽどのワル」かサイコパスくらいだろう。

 しかし、その常識は簡単に崩すことができる。

 人は意外にも他人を簡単に傷つけるようになってしまう。

 本書は、このことを明らかにしている。

 

 スタンレー・ミルグラムは、アメリカの研究者だ。

 そして次のような実験を行うことにした。

 

 実験に協力者してくれる人を2人連れてきて、

 1人を回答者、もう1人を採点者にして、簡単な記憶テストを1問ずつ行ってもらう。

 回答者は電気が流れるイスに座ってもらい、採点者は回答者から見えない位置に、実験を行う先生と一緒に座ってもらう。

 実験を行う先生は、採点者に、

 「回答者が回答を間違えるたびに、電気ショックを与えるように。」

 と指示する。

 最初はピリッとくる程度の電気ショックだが、

 間違う数が多くなるごとに、電気ショックの強さはどんどん強くなる。

 最終的には人体に危険なレベルまで電気ショックの強さを強くすることができる。

 こんな電気ショックを与える理由についても、実験を行う先生からきちんと説明がある。

 「電気ショックを与えた方が、一生懸命になって、記憶力が上がることを確認するためだ。」

 

 ここからがこの実験の面白いトリックなのだが、実は採点者以外は全て仕掛け人だ。

 回答者はわざと回答を間違える。

 そうすると実験者が電気ショックを与えるように指示する。

 採点者は電気ショックのボタンを押すが、そのボタンは作り物で、本当は電気は流れない。

 だが、回答者は電気ショックを受けて痺れる演技をする。

 わざと間違える回数が多くなるたびに、

 回答者の演技には力がこもり、悲鳴を上げたり、「自分は心臓が悪いんだ!」「実験を中止しろ!」と叫んだり、何も言葉を発さなくなったりする。

 

 ミルグラムが実験で確認したかったのは、

 電気ショックが記憶力に与える影響ではなく、

 この可愛そうな(演技をする)回答者のために、採点者が電気ショックを与えるのをやめるのかどうかだった。

 

 ミルグラムの仲間たちは、実験の結果を次のように予想していた。

 多くの人は、こんな目的の実験で、人に電気ショックを与える続けるはずがない。

 回答者が「やめてくれ!」と叫んだ時点でやめるだろうし、

 ましてや「危険」と書かれた電気ショックのボタンを押そうとも思わないだろう。

 おそらくボタンを押し続けるのは、1000人に1人くらいだろう。

 

 しかし、実験結果は予想外のものだった。

 40人中26人もの採点者が、最強のボタンを押したのだった。

 この結果は、65%の人が、回答者役の人が泣き喚こうと、絶叫しようと、電気ショックを加え続けたということを意味する。

 

 もちろん、途中で「回答者が痛がっていますが、どうしますか?」とほとんどの採点者が実験者に尋ねた。

 しかし、実験者は「大丈夫です。」「続けてください。」「続けてくれないと困ります。」「電気ショックが健康に影響することはありません。」などと言って、採点者に電気ショックを与えるように指示し続ける。

 このように指示を受けても、実験を自分の考えで中止する人もいたが、65%の人は、

「実験する先生がそういうなら・・・・・・。」

ということで、ボタンを押し続けた。

 

4 この実験結果は何を意味するのか

 多くの人は、自分より偉そうな人(難しい言葉だと「権威のある人」。今回は実験を行う先生)から指示されたり、命令されたりすると、

 それがたとえ他人を傷つける指示であろうと、その指示に従ってしまう。

 このことが、実験から明らかになったのだ。

 

 誰もが持っている、「人を傷つけてはいけない」という常識は、

 「大丈夫だからやれ」

 という一言で簡単に崩すことができるのだ。

 

5 そのほかの実験

 ミルグラムは他にも実験を行っている。

 例えば、採点者を回答者の側に置いたら、同情してボタンを押すのをやめるのではないか。

 実験を行う先生を2人に増やして、1人はボタンを押すように、もう1人は実験を中止するように指示したらどうするか。

 実験を行う先生に反抗する役の人を何人か置いたらどうなるか。

 などなど。

 

 この実験はあくまでも実験だが、自分達の周りに目を向けてみたい。

 正しくないことを指示することはよくある。

しかし、そういう場合でも、何となく言いだせずに、従ってしまうことはよくある。

 

 そんなときに「それは間違っているんだよ」ということは難しいし、

 間違った指示に従わないよう抵抗することは、もっと難しい。

 

 ただ、指示に従ってしまった人もやはり悪いことをしたことは間違いない。

 「自分は指示に従っただけなんです。」は下手な言い訳にしかならない。

 

 抗議の声を上げる、指示に従わない(不服従)を貫く。

 そういう勇気を持って一歩踏み出さなければならない時があるかもしれない。

 そんなときこの本に書かれてある事は参考になるのかもしれない。

 

 

『西原理恵子×月乃光司のおサケについてのまじめな話』 「家族が憎しみあわないために」

 家族が憎しみ合わないために。

 それが本書の目的である。

西原理恵子月乃光司のおサケについてのまじめな話 アルコール依存症という病気
 

 

 西原理恵子の漫画には、よく心をえぐられた。

 こちらの本は漫画というよりも体験記が主。

 それも、西原理恵子の亡くなった元夫のアルコール依存症についての体験記だ。

 

 具体的にどのような辛い思いを抱いたのかという記述はあまり厚くない。

 この本は、アルコール依存症の患者を家族に持つ人たちへ向けて書かれているから、

 こんなつらい思いをするんだよという思い出を共有する必要はないのだ。

 日本中に、それぞれのつらい思いを抱きながら過ごしている人がいるのだから。

 

 体験記とは別に中心的に述べられているのは、家族側の視点の問題だ。

 家族が我慢してアルコール依存症患者を支えること。

 それが必ずしも患者の為にならないということが強調される。

 わたしがいちばん後悔しているのは、六年間、がまんしてしまったことです。もうちょっと早く離婚して、捨ててあげれば、彼ももっと早く治療につながって、人として長く生きられたんではないかと思うことがあります。(24頁)

  これを専門用語で「底つき」というのだそうだ。

 

 どん底に落ちて、断酒を自発的に決意させる。

 これは非常に苦しい選択であり、状況だ。

 

 そこまでたどりついても、アルコール依存症は一生涯治療が必要な病気だ。

 つまり断酒という治療である。

 これは作家の月乃光司が体験記にリアルに書いている。

 飲んだら元の木阿弥、生きる道は断酒のみ。(50頁)

  月乃光司は自身がアルコール依存症であり、底つきから回復しようとしている人だ。

 

 西原は

 「一生飲まない。」という確かな治療法があります。(4頁)

 と述べ、希望を持たせるが、これは反面で、辛い治療が続くということだ。

 それでもなお、酒を止めたいという強い気付きが必要になる。

 (家族や大切なものがもともとない人間は、どうやって気付きを得るのだろうか。)

 

 家族と患者本人、それぞれの視点から見たアルコール依存症が大変苦しい筆致で描かれる。

 アルコール依存症に少しでもかかわりのある人は読んだ方が良い一冊だろうと思う。

『死刑執行された冤罪・飯塚事件 久間三千年さんの無罪を求める』 

飯塚事件弁護団編『死刑執行された冤罪・飯塚事件 久間三千年さんの無罪を求める』 

 

 「弁護人の意見を申し上げます。被告人は無罪です。」

 

 弁護人が裁判官や裁判員に向かって語りかける。

 弁護人の前のベンチには、犯人として裁判にかけられた被告人が座っている。

 ドラマで良く見るシーンだ。

 弁護人が被告人の味方になって刑事裁判で述べる意見を弁論という。

 その弁論の内容が記された書面を弁論要旨という。

 

 この本は飯塚事件という刑事事件の弁論要旨のようなものだ。

 飯塚事件の弁護人が被告人久間三千年氏の無実を主張する小冊子だ。

 

 もっとも、久間氏はすでにいない。

 平成初めに起きた2名の被害者の誘拐・殺人事件で死刑判決を受け、処刑されたからだ。

 被告人がこの世にいなくても、飯塚事件の弁護人はその無実を争っている。

 一度確定した裁判のやり直し(再審)を求めているのだ。

 久間氏の遺族のためでもあり、司法が無実の人間を殺した責任を問うために。

 この司法には弁護人自身の責任も含んでいる。

私たちの怠慢が死刑執行を許したのではないか、そうした思いから、私は、この9年間を針のむしろに据えられているとの思いを抱きながら、再審に取組んできた。(3頁・「はじめに」より)

 ひいては死刑制度自体への問題提起も暗に行っている。

再審開始となり、久間さんの無実が明らかになるということは、国が無辜の国民のいのちを奪ったということになる訳で、死刑制度そのものの存在意義が問われることになることは必至である。(同) 

 

 この弁護団の強い責任感の中から、この本は誕生した。

 主な内容は次の4点である。

 

1 飯塚事件ではDNA鑑定が行われ、久間氏のDNAが被害者から検出されたということになっている。

 しかし、この結果と異なる鑑定結果もあり、しかも、結果が警察の都合よく改変された可能性が高い。

 

2 血液型鑑定も行われているが、きちんとした方法での鑑定ではなく、真犯人と久間さんの血液型が異なる可能性が高い。

 

3 走行中の車から、犯行現場付近のカーブで、久間氏の車を見たという証言がある。

 しかし、カーブを走る車が、走りながら見たにしては、あまりに詳しい証言に、警察官が都合よく事実を誘導して証言させたのではないかという疑いが強い。

 

4 証拠上、久間氏と犯行とを結びつけない繊維鑑定も証拠になっている。

 

 残念なことに、この本は僅か80頁しかないにもかかわらず、分かりにくい。

 聞いたことも無いような検査方法や法学・医学用語などの専門用語が散りばめられている。

 前提となる事実が多すぎて、読み飛ばさざるをえない箇所も多々ありそうだ。

 

 そもそも現代人文社は「季刊刑事弁護」という刑事事件の弁護人向けの専門雑誌を発行している出版社だ。

 そこが出しているこのブックレットも、もしかしたら刑事裁判に関わる弁護人向けなのかもしれない。

 

 しかし、無実の人間を国が殺しているかもしれないという重たい事実については、国民全体が考えなければならないことだ。

 というのも、次に殺されるのは、あなたやあなたの家族かもしれないからだ。